心理職でもできる資産形成と運用

心理職でもできる資産形成と運用

FP×心理Thによる資産にまつわるアレコレのお話

アドラー心理学入門 アドラーってどんな人?

f:id:r2209:20190710104014j:plain

リヒト(@r2209)です。僕の臨床観に最も大きな影響を及ぼした一人に、アドラーがいるんだ。アドラーの思想は対人的資産を生み出す上でもとても有益なものが多いから、このブログでもアドラーアドラー心理学についてお話ししていきたいと思っています。

 

学部時代、フロイト精神分析とかユングとかは勉強しましたけど、アドラーはあんまり勉強してないです。

 

多分、そういう人がほとんどだと思うね。あまり勉強する機会もないと思うから、よかったらここで一緒に学んでいこう!

 

 

アドラーとは

アドラーオーストリア出身の精神科医です。

アドラー自身、幼い頃からくる病に苦しむなど身体が弱く、肺炎にかかり死にかけたこともあります。この経験が、アドラーに医師になることを決意させたと言われています。

 

アドラーの医師としてのスタートは眼科医でした。

しかし、自身が努力によって身体的ハンディを克服した経験から、「補償」「過補償」の概念を発展させ、徐々に精神科医としての才能を発揮するようになります。

 

アドラーと同時代に生きた有名人にフロイトがいますが、フロイトアドラーは対称的ですらあります。

フロイトの名前は倫理の教科書にも載ることもあり、一般の方でも知っている方も多いでしょう。

一方、アドラーについては、同じくらい心理学に大きな影響を与えた人物であるにもかかわらず、ほとんど知らないという人が大半だと思います。

 

数年前に「嫌われる勇気」が大ヒットした時に軽く触れた程度という感じではないでしょうか?

 

個人心理学の「個人」の意味

アドラーが創始した心理学大系は、個人心理学と呼ばれます。

 

アドラーはどうして「個人」心理学と名付けたのでしょうか?なんだか、閉鎖的なイメージがしてしまうネーミングですね。

 

しかし、実際はそのイメージとは正反対の心理学です。

個人心理学という名称から誤解されがちなのですが、特定の個人にのみアプローチする心理学ではなく、むしろ社会全体に目を向けた心理学だからです。

 

アドラーがその心理学に“個人”と名付けたのは、Individualつまり、in(not)+devisible(分けられる)=分割できない存在としての人間、あるいは分割できないものとしての人間集団をテーマとしているからです。

そのため、フロイトが考えたように人間のこころを意識と無意識に分けて考えることはしません。

 

ただ、やはり個人心理学というと誤解されがちなので、日本ではアドラー心理学として紹介されることが多いですね。

 

 

何の為に生まれて何をして生きるのか

アドラー心理学にはたくさんの重要概念がありますが、そのうちの一つがライフスタイルです。

 

ライフスタイルとは、その人の人生目標と、その目標を達成するためにとる行動とのセットであると考えると分かりやすいでしょう。

 

例えば、「海賊王に俺はなる!」といくら声高に叫んでいたとしても、戦闘術を鍛えず、海にも出ず、家でゴロゴロしているだけだとしたら、「今の生活を壊さず、危険を冒したくない口ばっかりの人」というのが、実際のその人のライフスタイルだという風に判断されることでしょう。

 

そんなゴム人間はイヤだ!

 

どんな形にせよ、人は自分がなし得たい目標に添って人生を歩んでいるのだ、というのがアドラー心理学の基本前提です。

 

そのため、アドラー心理学では「その人が成し得たいと思っていることは何か?その目的は何か?」を知ることがとても大切だ考えます。

 

アドラーは「その目的には『社会に貢献したい、社会に所属したい、社会を信頼したい』という欲求が基盤にある」と考えていました。

もし、この欲求を叶える方向へ行動できていないとしたら、それは「勇気がくじかれているから」と判断します。

 

従って、アドラー心理学の主要な技法の一つが、「勇気づけ」となります。

くじかれた勇気を勇気づけ、アドラーが基本的な欲求だと考える欲求(権力への意思)を実現しやすい心理状態へ導くように尽力するのです。

 

 

この欲求が満たされると、共同体感覚と呼ばれる感覚が生じます。人はこの共同体感覚を得る方向に向かって人生を進めているのです。

 

共同体感覚は、「貢献感」「信頼感」「所属感」の三つからなると考えると非常に理解しやすいです。

 

それぞれどういうものなんですか?

 

「貢献感」は人の役に立てている、という感覚です。

 

「人の役に立つ」といっても、何か特別なことができる(DO)必要はありません。その人の存在そのもの(BE)が既に誰かの役に立っているからです。

 

「所属感」は自分には属しているコミュニティーがある、という感覚です。

 

「個人心理学」という名称だと、この所属感のニュアンスが伝わりにくいかも知れませんね。

 

「信頼感」は自分も他者も不完全であるが、支え合えば生きていけるという感覚です。

 

信頼感が薄いと、つい相手に依存してしまったり、逆に過保護になってしまいます。

「相手には相手のペースがある」と相手そのものを信頼することができた時、この感覚が高まります。

(信頼感に基づいて「自分は自分、相手は相手」と分けて考えることを「課題の分離」と言います。これはまた別の記事でまとめますね!)

 

これら三つが絡み合ったものが共同体感覚です。

アドラーは共同体感覚を「生まれつき備わった潜在的な可能性だが、意識して育成されなければならない」ものだと考えていました。

 

だからこそ、勇気がくじかれた時には共同体感覚を取り戻すために、人と人との関わり、特に勇気づけが重要になってくるのです。

 

 

劣等感という言葉を作ったのはアドラーって知ってました? 

共同体感覚を得られている状態は非常に勇気に満ちあふれている状態です。

「自分」というものをフルに発揮できている感覚になり、人と人との結びつきを強く感じられるので、安心感もあります。

 

しかし、当然のことながら、逆の状態になる事もあり得ます。なんてったって、共同体感覚は意識して育てていかねばならないものだから。気を抜くと、人はすぐに共同体感覚を得られないように振る舞ってしまうのです。

 

共同体感覚を感じられない時、人は劣等感を抱くようになります。

※「劣等感」と「コンプレックス」はよく一緒の意味で使われることがありますが、心理学的には全く異なる物です。コンプレックスとは「心的複合体」を指す言葉で、色々な感情が複雑に絡み合っている心の在り方を指します。

 

劣等感は様々な心理的な問題を引き起こします。うつ病やひきこもりなども、アドラー心理学的には劣等感が関与していると考えることが可能です。

 

例えば、うつ病は社会に貢献している感覚が得られないことに、ひきこもりは社会に所属できているという感覚が得られないことに、それぞれ起因しているかもしれないのです。

 

 

こんなときは一旦立ち止まって考えて

人は常に「今の状態よりもちょっとでも良くなりたい」という本能があります。この本能があるからこそ、人は成長し続けることができるのです。

そういった意味で、劣等感を感じること自体は普通の事だし、問題のあることでもありません。

 

問題があるとしたら、それは「間違った劣等感」を抱え続けることでしょう。

 

間違った劣等感は、「あの人よりも優れたい」などという競争心から生まるものです。

 

アドラーが建設的と考える劣等感を「成長したい気持ち」と定義するとすると、間違った劣等感は「競争心」と定義することができるかも知れません。

 

この2つは双子の兄弟のようなものです。 

でも、あくまでも「双子の兄弟」であり、別々感情のはずです。ここは見分けるのが難しいのですが、見分けがつかなくなった時こそ、よーく見極めましょう。双子だけあって顔がよく似ています。

 

 

「どう生きたいか」を願うとき、本当は誰かと競い合う必要も、誰かと比較する必要もないはずです。ここは思っている以上に大切なポイントです。

 

 

どう見分けるか

では、どうしたらこの双子を見分ける事ができるのでしょうか?

 

まずは自分の胸に手を当てて、自分が感じている劣等感が上述した二種類のうち、どちらのタイプのものかに思いをはせてみてください。

 

 

人との比較で生じる間違った劣等感の場合、コンプレックスを抱くだけで具体的な行動を起こすのが大変困難です。

自分と他人はおかれている状況が全く違います。毎日10時間勉強しても疲れない人もいれば、その半分の時間勉強してぐったりしてしまう人もいます。

 

そのような事情が全く違う人同士を比べても意味はありません。

「相撲と青色どっちが好きですか?」と聞かれて答えられないのと一緒です。

アドラーはこのような時に感じるコンプレックスを劣等コンプレックスと呼びました。

 

ちなみに、そのような事情を無視して「俺のほうが優れている」と思い込み、努力することを半ば放棄してしまった状態を優越コンプレックスと言います。

 

いずれのコンプレックスも、競争心によって相手を支配しようとする目的で使われがちです。

「私は全然ダメな人間ですから」というと、相手は自分に合わせて諸々を調整してくれるかも知れませんし、

「俺は凄いんだ」と威張れば、「じゃあお任せしようかな」とやはり諸々を自分に合わせて調整してくれるかも知れないからです。

 

どっちも共同体感覚を欠く発想であることに気づいたかな?

 

 

一方、建設的な劣等感は、あくまでも比較の対象が自分ですから課題が見つかりやすいのです。

「うーん、本当は5時間勉強しても体力的には平気なのに、昨日はサボって4時間しかできなかったな。何か改善策を考えよう」

 

このような発想なら、とくにコンプレックスを感じる必要は無いし、他人と比べてその他人を敵対視する必要もありません。

 

 

コンプレックスを感じる時、それは人生の再スタートを切る好機かも

アドラー心理学では、このような心理的な問題が生じた時、その人のライフスタイルの見直しが迫られた時だという風に前向きにとらえます。

 

コンプレックスは、「今までのライフスタイルでは共同体感覚を得ることが難しくなってきている」ということを示す感情的サインだからです。

アドラー派の心理療法の目的は、共同体感覚を得るようなライフスタイルへと転換するのを援助することなのです。

 

 

「トラウマは、存在しない」って誰が言った?

冒頭で紹介した「嫌われる勇気」にはこんなフレーズがあり、かなり話題になりました。

 

 

「トラウマは、存在しない」

 

 

けれど、これは正しくありません。アドラーの言葉を引用してみます。

 

いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック――いわゆるトラウマ――に苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって、自らを決定するのである。(「人生の意味の心理学」、p.21)

 

このように、明らかにトラウマの存在に言及しています。全く否定していないのです。

 

アドラーが言っているのは、「経験に与える意味によって、自らを決定する」ことの問題についてです。

つまり、「トラウマ反応は自分の弱さの証拠」などという風に、「トラウマ=自分」と結びつけて自己決定し、「トラウマを受けた“から”、そんな自分は何も出来ない」と捉えてしまうことの問題を指摘しているだけなのです。

 

この考え方に疑問を持つ人は少ないのではないでしょうか?

 

 

個人差は当然ありますが、人は皆トラウマに従属する存在ではなく、きちんとしたケアを受け、カウンセラーの援助を受けていけば、トラウマを克服するだけの力が必ずあるのです。

 

 

余談 

精神医学史学者のエレンベルガーによれば、

アドラー心理学は「共同採石場みたいなもので、だれもがみな平気でそこから何かを掘り出していくことができる。他からの引用部分ならその出典をことこまかに明示するような人でも、その出典がアドラー心理学の場合に限ってはそうしない」

とのことです。

それくらい多くの心理学者に多大な影響を及ぼしたのです。

 

 

今までの話を聞いて思っていたのですが、なんだか対人関係療法とか認知行動療法と考え方が似てますよね!

 

まさしくその通り。

対人関係療法を作るときに、最もよく研究されたテーマの1つがサリヴァンの対人関係論なのですが、サリヴァンの属する新フロイト派はアドラーの流れをくむと言われています。

また、認知療法を創始したベックや論理療法を創始したエリスは、アドラーの訓練を受けていました。

 

このように、「これはアドラー心理学の発想だ」と知らずに、アドラーの知識を使っているということは実はよく見られることなのです。

 

 

アドラー心理学に興味をもって勉強してくれる人が増えたら幸いです。